Vol.7-2 ただいまー!ヒマラヤ生還記 後編

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エヴェレストをバックにアン&ディックと

さて、前編はそぼふる雨の中を歩き始めたところで続きとなっていましたね。へなちょことディックに判断された私と齢60を越える彼の親友夫妻に専属シェルパがつくことにあいなり、ディパックを背負って歩き始めたメンバーをよそに、私達は身ひとつにもかかわらず早くもグループの一番後ろにつくことに…。「タシデレー!」大きな声を張り上げて励ましてくれる子供達に元気をもらい「うさぎと亀」の話をしながら、気の遠くなるような急斜面をゆっくり一歩ずつ。でも辛いからって気を紛らわそうと話したりすると、すぐ息苦しくなることがわかりました。出発地点、ルクラの標高はすでに9300フィートもあるのです。私についてくれたシェルパの名は「タシ」。一見日本人といわれても「あぁ、そうかな」と思ってしまうような風貌です。ポーター(荷物を運ぶだけの人夫のような役割)を3年も続けるうちに道にも詳しくなり、通信手段のない山中で欠かすことのできない仲間とのネットワークが増え、シェルパに昇進できるといいます。もちろん英語が話せることも必須条件。ネパールの人口2千万のうち、15万人を占めるシェルパ族に男女の区別はありません。私の体重の倍はある荷物をしょって黙々と歩きつづける彼ら。足元をみれば、靴底がはがれパコパコ音をたてている人はまだいい方で、薄いゴムのサンダルのまま岩を渡し歩いている人も大勢います。見ているだけでこっちの具合が悪くなりそうな光景…。ふと自分の足元に視線を落とせば、私が履いているのは最高級といわれるイタリア製アソロのトレッキングシューズ。口では説明できない辛い気持ちになりました。でもそんな自分の価値基準を中心にすえた感傷的な同情はまったく無意味。彼女達は休む間、本当に楽しそうにお喋りに夢中です。夢をはげましながら、毎日を懸命に生きるたくましさが静かに伝わってきます。

驚くなかれ私の足は以外と強く、まめや筋肉痛に悩まされることはありませんでした。日本からたくさん持っていったサロンパスやバンテリンも一切必要なし。長く尾を引く鈍い頭痛もさしたる支障にはなりません。専属シェフの腕はなかなかのもので「きっと何も喉を通らないだろう」との予想を裏切りけっこう食もすすみ、パワーバーやドライフルーツは行き交う子供達に何の躊躇もなく渡せます。私を一番陰鬱な気持ちにさせたのは「厠」。リタイヤするとしたら、その悪臭と汚なさに耐えられないからに違いない!初日からずっと考えていたことです。たとえば悲惨な情景は、筆を丁寧に尽くせば克明に描写して読者に伝えることができるでしょう。しかし今まで自分でも経験したことのないような悪臭をどうやって…。しかもこれが最大の私の災難、そして敵。何百年も地中にたまった人畜の落し物が放つ異臭に吐き気をもよおすのではなく、本当に吐いてしまうのです。薄い板に囲われた掘建て小屋の中に入る時の勇気がいることといったら!小屋の中、山のように積まれた藁を「ほうきで掃いて落し物を隠すのよ」と教えてくれたアン。ディックが黒といえば、白鳥さえも黒とみとめてしまうような昔ながらのしとやかさを持つ、聖女のごとき彼女の顔をまじまじと見つめる私。夫についてヒマラヤに来るのは8度を数えると言う。アンがこんな環境に耐えられるなんて、おおよそ想像もつきません。毎週リッツ・カールトンでキャビアを食するというシカゴから来たミシェル(彼女はこのヒマラヤ旅行をオークションで$31,000で落札した人)は、うんざりとした顔を私に向け「これなら人目の届かないブッシュの中で恥をさらしたほうがましよ」。後悔先にたたずだからと、大人用のパンパースを持っていくよう真剣な面持ちですすめた日本の母の顔が思い出されます。「たかがトイレでしょ。大袈裟な」と思うことなかれ。本当に経験した人にしか理解しがたい凄まじさなんですから。日本の香料つきペーパー「エリエール」を鼻にあてがい息をとめて臨むものだから、厠から出てくる頃には空気の薄さも手伝って呼吸困難に陥るのです。トイレに行くたび酸素ボンベが必要なほどゼーゼー深呼吸を繰り返し、本当に逼迫した悲惨な状況なのです。おまけに神の使い、お牛さまの落し物が至るところにあり、それを踏まないように歩くのも一苦労。美しい山河に囲まれながら、深呼吸のひとつもできません。一度泣き言を言い始めたら際限がなくなるので、一切の不満を封印します。私の一挙手で何を欲しているか即座に読み取ってくれるタシが、抜群のタイミングで渡してくれる水筒や差し伸べてくれる手に感謝しながら2日目、16kmを歩ききりました。

下山時のヘリコプター

山の夜は本当に真っ暗です。漆黒という単語を生まれて初めて体験したと思いました。疲れた体を休める部屋に電気はもちろんなく、心細いロウソクの灯と工事現場のおじさんのようなヘッドライトがなければ、なにも見えません。でもこれって素晴らしいことなんです。青い月と空をおおいつくす満天の星たち。東京で生まれ育ち、その後はサンフランシスコで暮らしてきた私が見たこともない本物の「夜空」を見た瞬間でした。大学時代、やっとの思いで単位をとった天文学も全く役に立たず、おびただしい数の星を見上げながら涙がこぼれました。自然の美しさに感動する心がよみがえってきたようなかんじです。

4日目、歯を食いしばりながらややもすると昏倒しそうになりながらティンブシェに辿りつくと、そこはすでに標高14,000フィート。富士山よりも高みに身をおき、エヴェレスト=中国名チョモランマを間近に見上げた瞬間は、それまでのいやなことが全て下界に落ちていくような錯覚にとらわれました。これまで機上からしか見たことのなかった雲を、自分が踏みしめている大地から遥か眼下に見下ろし、まさに「雲上人」。実際にエヴェレストに登るには3年の準備期間を要し、600人のポーターに1億円の資金が不可欠といわれています。その魅惑に憧れ、幾多の命が落とされたことでしょう。朝陽に輝く頂は、けして写真なんかで再現できるものではないと確信しました。今、私の眼前に広がるこのヒマラヤ山脈をぐるりと見渡し、胸に焼きつけて記憶にとどめておくほかに一体どんな方法があるというのだろう…。ここまで自分の足で来た者だけが、共有できる至福ではなかろうか。どんなに立派な写真やパネルより、きっと私の胸から去ることのないこの景観、そしてここまで自分の足で来れたという事実。長い人生、この先遭遇するかもしれない困難な「時」を乗り越えて行くのに、必ず支えてくれるに違いない…。心からそう思いました。誰もが感動にむせび、この後どんな顛末が待っているかも知る由はなく。

日々、誰かしら体の不調を訴えます。高山病、頭痛、腹痛、筋肉痛。どれも大事には至らない飲み薬で解決できるマイナーなトラブルです。歯磨きさえペットボトルの水を使い、細心の注意をはらっているのだからお腹をこわすわけがない。誰もがそう信じていました。しかし思わぬところに落とし穴はあるものです。トーストにぬった蜂蜜を宿の主人は水道水で薄めていたのです。幸い甘いものが好きではないので被害は免れましたが、私も交通事故の後遺症である腰痛が極限に達していました。グループの殆どが倒れ、ディックは日程半ばではあるけれど下山を決定。ヘリコプターが粉塵をまきあげ到着した翌日の朝、タシとの別れを惜しむ間もなく機内におしこまれ、ティンブシェを後にしなければならない口惜しさ。「ふたりとも自分の中のエヴェレストを登りきったんだ、よくやったよ」。ディックに抱きしめられながら、私も、そして発熱と扁桃腺の腫れで声も出ないエリザベスも泣きじゃくっていました。ヘリコプターが轟音を響かせ、タシも他のシェルパも瞬く間に小さくなっていきます。地平線まで続くようなヒマラヤの嶺峰だけが私達をいつまでも包んでいるようでした。あんなに苦しい思いをして歩きとおした行程を、ヘリコプターはわずか7分という短い時間でルクラまで戻っていったのです。心のどこかでほっとする気持ちと、最終行程までやり遂げたかった思いの間でゆれながら、おそらく私の最初にして最後のヒマラヤ・トレッキングは幕を閉じました。いつかもう一度行ってみたいかと訪ねられたら……迷うことなく答える私がいます。

「絶対にどんなことがあっても2度と行きたくない!!」

※リポート内容は取材当時のものとなります

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